大きくもなくのっぽでもない振り子時計
私の家には大きくもなくのっぽでもない振り子時計がダイニングの柱にかかっていて、どうも父の小さな頃からその時計はあったそうです
プラスチックの盤が黄色くあせた時計は、今はもうねじまきを巻いても一月もたず、しょっちゅう巻いてやらなくては働いてくれません
ざらに10分程度遅れているし、酷いときは2時間ほどスマホ画面と時間が合わない、ので時間を確かめる際にはあまり振り向いてもらえない
捨てないの、と聞いても父は「まあ、なんとなく」としか答えないので不思議でした
とは言うものの、「ネジを巻く」という行為はその時計くらいしか最近はないので、思い出した時に巻くのはすこし面白いと思う自分もいます
ふと、私が使っている電卓が時々計算を間違えたら捨てるかな、と考えました
その電卓で死にものぐるいになって簿記の資格を取って、それからずっと使っているんですけど、もし間違えるようになっても多分とっておくと思うんですよね
計算ができなくなっても、なんとなく部屋の文具エリアの片隅に、目に映る場所に置いておくだろうなと思い、ああそういうことかなと
多分父も祖父からねじの巻き方を教えてもらったことがあって、朝御飯も晩御飯も振り子時計の下で数えきれないくらい食べてきて、振り子時計が単なる振り子時計以上の価値を獲得したのかな、と思いました
父が地元を離れず家を継いでいる理由も似たものかもしれません
なんとなく捨てられないものとして高校のときの制服や人からもらった手紙、小さい頃使っていた毛布などがあるのですが、こういう気持ちを人は愛しいと呼ぶのかな、と、そんな気がしました